【漫画】『ミステリと言う勿れ』で心に刺さるセリフもう少し掘り下げてみたまとめ

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田村由美先生の現代ミステリー『ミステリと言う勿れ』に登場する個性的な主人公·久能整(くのうととのう)くんによる名言を前回紹介しました。

作中には久能が「僕、常々思うんですが。。。」とクッションを置きながらも現代の問題をさりげなく提起して、おや、そういえばこれって、読んでるうちに自発的にもう少し深く知りたくなる要素が散りばめられています。

そんな2巻目以降の、掘り下げたくなるトピックを紹介します。

人生最大のイベントの一つである結婚式。西洋風の教会でのウエディングシーンを思い浮かべる方も多いでしょう。

チャペルで行われるキリスト教の結婚式では、まず新郎がチャペルのドアから入場し参列するゲストに迎えられます。

続いてウエディングドレスを着た新婦が父親にエスコートされながら、バージンロードを歩いて祭壇に向かいます。

なぜ娘が一緒に歩くのが父親なのか。

それは歴史的な慣習からきており、かつて女性が父親の所有物であった時代にまでさかのぼります。

一家の主であった父親が、持参金と引き換えに娘を結婚相手の婿の家へ嫁入りさせるという意味があったからです。

式では父と娘がバージンロードを歩いて祭壇につき、そこから娘の所有権が新郎へとバトンタッチされます。

日本にも古来からのお家制度では戸主である父親の許可がなければ結婚できなかった時代がありました。

チャペルウエディングが日本に紹介された当時も、父親から新しい夫への娘を所有権の継承を意味する「父親が娘をエスコートする」パートはそのまま取り組まれました。

娘を付属物扱いしてる、そして父親が一家の主人というその感覚が、いささか時代遅れと感じる人も多いでしょう。

バージンロードは日本のブライダル業界の造語である和製英語というのも初耳でした。

英語では「wedding aisle(アイル)」というのが一般的だそうです。

バージンロードは、チャペル入場の時点から新郎のいる祭壇までがこれまで新婦が歩んできた人生を象徴するものとされています。

要は、生まれてから今まで一番長く人生を共に歩んできた人からエスコートされれば良いわけで、母親や兄弟、親友、もしくはソロでなど、自由な選択をして当人にとっての最良の色をするのが一番ではないでしょうか。

『これが子育てをする母親たちの毎日なんです』(第3巻)

子育てをする母親たちがいかにの毎日を、ある実験で父親たちに模倣体験させたという話です。

被試験者である父親たちは、計算問題を課せられるも数分おきに邪魔されて時間内に全問解くことができない。こんな邪魔が入っては計算ができないと文句を言う父親に「これが子育てをする母親たちの毎日なんです」とピシャリという久能。

この邪魔が入るせいで中断を余儀なくされ、達成感を味わえないというイライラした焦燥と挫折の念、おそらく誰もが経験したことあり共感を抱くことでしょう。

ただし、効率化の進んだ現代では以前よりも集中するための一定の時間を確保しやすい時代になったといえます。

オフィスワークだって、電話が主流のコミュニケーションツールだったアナログな時代は、膨大な電話の対応に時間を費やし自分のタスクが進まない状況だったことが多かったものです。

でも今はメッセージアプリやメールのコミュニケーションが主流になり、不意の電話や話しかけられ作業が中断されることもめっきり減りました。

オフィス内でも目の前にいる人間とチャットだけで静かに意思疎通も普通です。

在宅ワークでも公私の境界さえ区切りをつければ自由な時間もとり安いです。

自分の集中できる時間を確保できるのは仕事の効率にもつながると思います。

まあ個人的には、ニュアンスの細かい説明や指示などは横着せずに対面でしたい派なので、自分のデスクから離れたがらない同僚にいらだちを覚えることもありますが。

オフィスワークが集中しやすい環境になった一方、子育ては24時間アラートモードで気を張っていなくてはいけないタスク。自分だけの時間を確保するのは難しいので、他の家族のサポートが大切です。

『自分が下手だってわかる時って目が肥えてきた時なんですよ。』(第3巻)

今チャレンジしてることの壁にぶち当たり煮詰まり気味になった時、ぜひ心に思い起こしてほしい言葉です。

人間は日々成長する生き物。

でもその成長速度って毎日同じ速度でジリジリ伸びているわけじゃなくて、停滞期があって、そこからググッといきなり伸びるようなリズムです。

勉強、スポーツ、音楽、アート、仕事など様々な分野で言えますが、一生懸命やっても進歩が一進一退だったり、全然進歩が見えなかったりするスランプ状態の時は気持ちも沈んでしまいがち。

スランプ期間が長いほど途中で挫折してしまう場合もあります。

でも、自分の望むものと現状のギャップが見えて、なかなか上手くならない自分にへこたれ気味になっている時こそがチャンス。

本当に下手な時って自分が下手なのさえもわからない。

だから下手だと思った時こそ伸びどき、と言うことです。

アスリートや学芸の成功者も、よく「練習」や「探究」を日々継続したと言ってますよね。

継続は力を信じて、下手で嫌になる自分も「今はその時期なのだ」と受け入れて続けることが大事なのだと気付かされます。

Persistence pays off.
忍耐は報われる

practice makes perfects.
継続(練習)が完璧を生む

英語でも同じようなフレーズがあります。

遺伝的な身体的優位は存在するけれど、力量不足でも断念せずに目標に向かって地道な努力をすることで達成できる

継続こそが才能の一つであります。

『「大丈夫ですか」と聞いちゃダメ』(3巻)

困っている人や助けが欲しそうな人に話しかける時の声かけの文句。

その場合「大丈夫ですか」と聞くと、相手は大抵「大丈夫」と答えるから、「どうかしましたか」と聞くと良いと言う話です。

会話で相手から情報を引き出すための質問の仕方にはいくつかパターンがあります。

この場合返答がイエスかノーか答えか、または深い内容を含む返答のどちらを導きたいのかによります。

「元気?」と聞く挨拶の定例句があります。

挨拶として話し手は、相手から長いくだりを意図としていないと考えるので、大変な怪我や病気でもない限り「元気」とか「まあまあ」とかという返事で済ませる人が多いです。

「いや実は寝不足で、今日ちょっと体が重くて、携帯を充電し忘れて目覚ましアラームがかからなくて、そのせいで遅く起きてしまったから、朝ごはんも食べてなくていつもより若干消耗してます。」と言うような返答をされることはまずないでしょう。

「大丈夫ですか?」もややそれに近いものがあって、「いいえ、大変なんです」と言う否定的な言葉よりは、あたりが柔らかく返答が簡単な「大丈夫です」に落ち着くわけですね。

でも「いいえ」のリアクションが「え、一体どうしたんですか?」と詳細求む!になるのに対して、

「大丈夫です」は「そうですか」と完結するリアクションです。

仕事でも社交の場でも言えることですが、会話で相手から情報を聞き出したい時、また会話を盛り上げたい時は、「いかに相手から会話量を導かせる質問を投げかけるか」と言うことがキーになってきます。

その時重要なのが、相手を「聞く力」です。

質問を「はい」や「いいえ」で終わらせないためには、W1Hを活用した質問の仕方をするといいといわれます。

5W1H = Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ) How(どうやって)を活用する方法です。

よくテストにあるタイプ別で次のようなのがあります。

  1. 選択回答形式の質問(Closed-ended question 例:昨日は夕飯食べたか。
  2. 自由回答形式の質問(Open-ended question例:なぜ人口減少が続いていると思うか。

ただ、2のような「どう思う?」と言うような質問をいきなり投げるのは少し注意が必要かもしれません。

なぜならオープンすぎる質問だと範囲がありすぎて、返答に困る場合が多いから。

よく、ニュースやワイドショー番組などで「○○さん、この事件どう思われますか?」ってMCがゲストに雑に投げかけるシーンが度々ありますけど、あれってMCがゲストに丸投げしてる感が否めません。

TV番組は当然シナリオや流れがあるのである程度、トークも事前に備えがあり返答も範疇内に収まるのでしょうが、これが実生活ならどうでしょう。

例えば、あるお店のマップを見せられ「これ、どう?」と聞かれても一瞬「は?」てな感じです。

その店に行ったことあるって聞いてるの?デートで使いたいんだけどおすすめできそう?この店新しくできたんだって知ってた的な?と最低情報をくれないと逆に質問を質問で返したくなる自分がいます。

日常会話では1から2に派生する流れに持っていくのがスムースな人間関係を築きやすいと言えます。

最初に「この店行ったことある?」と言うような「はい·いいえ」の段階で、相手がそのトピックの関心度やあるいは嫌悪感、時間の切迫感など、ある程度の情報をキャッチすることができます

ないけど、行ったことあるの?有名なの?」と食いつきを見せるか

ない」と言い切り会話を終わらせようとするか

はあ?なんでその質問?」とトピック自体に否定的な感情を見せるか

それによってその場の空気を読みながら相手に合わせて話の進行を進める。

相手を見ながら会話をポジティブに進めることができる。自分が話すだけでなく、聞く力で相手から会話を引き出す。

そういった、MC的な場を回すコミュニケーションスキルが、ビジネスでもプライベートでも求められる世の中なので、能力を高めたいところです。

『人類の誰一人も食べてきてないような量を必須っていうのはなんなんだろう』(第5巻)

よく「健康のためには1日野菜はこれだけ必要!」と、傘をひっくり返したくらいの大きな器に盛られてる野菜たちを目にしたりします。

それ毎日食べるのか!無理でしょ!と大抵の人は思うはず。

人の食生活は万人違うので、人の数だけダイエットの数もあります。

ただ近年の研究では、ソースによっても量のばらつきはありますが、大人の男性で1日野菜大まかに3カップは必要なんて言われています。

もっと量の多いソースでは

毎日5食分の野菜とフルーツを食べる人は1日2食分だけを食べてる人に比べて13%病気のリスクが低くなる
とハーバード大学医学部とブリガムアンドウィメンズ病院のDong Wang博士は研究結果を発表してます。(*1)

まあ毎日5食というのはかなりハードコアですが、できれば3食の食事のたびに野菜は取りたいですね。

では1食の野菜って一体どれだけなのか?

1=1 serving 1 カップ(cup)に相当します。

1カップと言っても正直日本と欧米ではサイズが違うんですが、 日本では200ml、アメリカ240ml オーストラリア250mlぐらいでと捉えていただけるといいでしょう。

カップって言われても野菜なんてそれぞれ形が違うし、切り方や、生や調理の違いでもかさが変わるし、それって実際どのくらいなんでしょう?

1カップの例を野菜やフルーツ別に挙げてみましょう。

  • ブロッコリー:中サイズの房(13cm尺)3つ分
  • トマト:8cm弱の中サイズのトマト一個、チェリートマトなら16個
  • ピーマン:約8センチ大1個
  • 玉ねぎ:中サイズ(230g)を生で2カップ、調理すると1カップ
  • セロリ:30cmくらいの茎2本ぶん
  • にんじん:中ぐらいの2個、または生のベビーキャロット12個
  • マッシュルーム:9個
  • りんご:大サイズ1個
  • バナナ:大きい1個
  • いちご:8粒
  • 葡萄:30粒

レタスやベビーほうれん草など葉系の野菜は2カップ分が1カップ相当。

逆に乾燥された野菜やフルーツなどは1/2カップで1カップ相当。

これだけの野菜量を健康のためには必要ですと言われても、実際それを毎日実践してる人は何人いるのでしょうね。

昔に比べ、健康寿命が伸びている昨今、生まれた時からこの野菜摂取量を実施してたら、200~300歳まで寿命が伸びる時代がそう遠くないかもしれません。


[出典] 記事: “Fruit and vegetable consumption reduce risk of death”, 日付:2021年3月9日、出典元:National Institutes of Health

『役割じゃなくて名前で呼んでほしいって』(第5巻)

親御さんには「お兄ちゃん」や「お姉ちゃん」などの役割じゃなくて名前で呼んであげてほしい、という久能くん。

一方でおばあちゃん世代の詩(うた)さんは、長女だったから「お姉ちゃん」と呼ばれ続け、旦那さんより初めて「詩さん」と呼ばれ不思議な感覚だったと言う。

歳をとり親兄弟や親戚たちが亡くなると「お姉ちゃん」と呼んでくる人は出てこないと言う寂しさ、役柄で呼ばれることに対して一種の家族としての尊さも語っています。

他人から呼ばれる他称の変化が、自分が周りにおいてどのような立ち位置であるかを示しています。

作中の詩子さんは年を経てもう「お姉ちゃん」と言う存在だった家族のメンバーが他界して、きっとこれからは名前以外では、「おばさん」や「おばあちゃん」と言う呼ばれ方をするのでしょう。

不思議なことに、ステイタスの格上を指す「お母さん」「おじいちゃん」「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」「先生」先輩」「部長」がそのまま呼び名になることはあっても、「弟」「妹」「部下」「後輩」など上から下のものを指す語が呼び名になることはありません。

三人兄弟の真ん中が「兄さん」と兄を呼んでも弟に「ねえ、弟」とは呼びません。

もともと格上のステイタスの人に敬いを込めての呼び名で、家族や組織の中で敬意を払われていることを示しています。

そして他称だけではなく、自身のことを指す自称も立場や環境によって変化します。

家族に向かって「お母さんはね」と自分のことを言う母親が、外では「私は」と言ったり、

家族や集団での外と内の呼び名が変わるのは往々にしてあることです。

自分をどう呼んでいるかで、その人が集団の中でどういうポジションでありたいかが見えます。

子供が一人称を自分の名前や愛称を使って自分を指していたのが成長するにつれて「ぼく」や「私」になったりするのも自己と外の世界の集団を意識してくるようになったという変化のあらわれです。

他称、自称の変化で自分の心の動きや客観性、他者が自身をどう捉えているのかなど関係性や社会性などが見えてきますので注意が必要です。

まとめ

普段、リラックスのための漫画は目が疲れてることもあり、ビジュアル主体で流れを探る程度にささっとテンポ良く読んでしまいます。

そこで、初見飛ばしてた細部を、2回目、3回目に時間をかけて読むうちに興味深い断片が発見できます。

『ミステリと言う勿れ』は初めて読む時に、「あ、ここあとでもう一度読もう」と脳内ブックマークをつける部分が多く、思わず熟考してしまうタイプの作品です。

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