サーミという北欧の先住民族、知ってますか。
先住民または先住民族とは、もともとその土地に居住していた人々のことです。ネイティブ·アメリカンやアボリジニ、日本ではアイヌなどが有名ですが、サーミについては日本ではあまり馴染みがない人も多いでしょう。
ムーミンやマリメッコなどの北欧ブランドが一時期ブームで、ブームが去った今でもそのスタイリッシュなモダンさが根強く人気です。北欧好きで、一般的なステレオタイプの「ザ·北欧」イメージからもうちょっと奥深く土地や文化の歴史を垣間見たい、という人におすすめの映画が『サーミの血』です。
サーミの少女の目を通して描かれた繊細な文化と飄々とした自然美が繰り広げられる映画を詳しく紹介します。
私たちの思い描く素敵な北欧、ラップランド、でもそれって真実!?

「北欧」といって思い浮かべるのは、オーロラ、フィヨルドなどの豊かで広大な自然、サンタクロースの住む雪の世界、マリメッコやIKEA、ムーミンなどのクールな北欧ブランドやキャラクター。また社会福祉や教育、生活水準、環境保護のレベルが高くて、成熟した国のイメージがあります。
日本人が抱く北欧イメージは好感度が高くて、あんな大自然でスローライフを送ってみたいなんて憧れる人も多いのではないでしょうか。
でもどんな国や社会にも闇の部分はあるわけで、2016 年の映画『サーミの血』は1930 年代のスウェーデン北部でサーミ人の少女が体験した人種的偏見と彼女の思春期時代の葛藤と闇の部分が描かれた青春ドラマです。
サーミ人とはスカンジナビア半島北部からコラ半島に及ぶ地域で伝統的にトナカイの遊牧をする民族であり、その地域は現在のスウェーデン·ノルウェー·フィンランド·ロシアの4カ国にまたがっています。
国境を横断する民族のため、彼らの呼称は国や地域によってさまざまでセンシティブな政治的側面があるようです。
ちなみに日本でよく使われる「ラップランド」とは本来は”辺境”の地を呼んだ蔑称で、サーミ人はサーミ語でサーミの土地を意味するSápmiといい、彼ら自身を、サーミまたはサーメと自称します。英語ではサーミをSámi, Sami, またはSaamiと表記されます。
サーミ語は10以上の方言があって差が激しいため、独立された言い方でサーミ諸語と呼ばれます。北部サーミの言語が75-90%を占める最も多く使われている言語となります。
サーミ語はユネスコの消滅危機言語のリストに入っています。諸語の中にはすでに消滅したサーミ諸語もあります。
少数民族で消滅危機言語を扱うサーミの人々を取り上げた映画はほとんどなく、数少ない映画のサーミ人は、文明や知性から取り残された野蛮な民族として描かれることが多かったようです。
『サーミの血』はサーミをメインテーマとして描かれた初めての長編映画として注目を集め、数々の映画賞のノミネートや賞を受賞してます。
脚本と監督を務めたアマンダ·シェーネルはこれが初の長編映画作品。彼女自身の父方の祖母はサーミの血を引いていおり、この映画は彼女自身の経験や祖母のストーリーが投影されています。
リアリティを追求するために、ヒロインの少女時代を演じるレーネ=セシリア·スパルロクをはじめサーミを演じるキャストたちはサーミである人々によって演じられています。
作中ではサーミのアイコンである伝統的なナイフや、小道具、民族衣装が使われ監督のリアリティのこだわりが感じられます。特に、ヨイクの民謡を歌うシーンは印象的でサーミの音が終わった後も静かに頭に響きます。
『サーミの血』のストーリー

1930 年代のスウェーデン北部が舞台で、サーミの子供たちが通う寄宿学校で14 歳の少女エル·マリャがサーミであることの周囲の偏見や差別に耐えられず、サーミ人としてのアイデンティティ、サーミの家族を捨てて、サーミの村から脱出することを決意する物語です。
映画の冒頭は現代の年老いたクリスティーナ(エル・マリャ)が故郷のサーミの村を尋ね、妹ニェナの告別式に参加するところから始まります。かつては自分も住んでいたはずの地や馴染みの人々、ラジオから流れる民族音楽ヨイクさえが、今の彼女には疎ましく苛立たちを抑えられない。地元の親戚家族から宿泊のオファーを受けるも断り、ホテルで一人宿泊します。
80年もの時を経て、今やサーミの村は観光地化され、国からの保護政策でヘリコプターやバイクなどで移動する現代のサーミ人たち。ホテルのラウンジに同席するのは都会からの宿泊観光客たち。
「サーミ人の使うヘリコプターの音がうるさくて迷惑」とか「サーミってもっと自然と近い民族じゃなかったの。静寂を求めて遠方からバケーションからきたのに割に合わないわ。」と文句を言う彼女たちに、「そうね」と同調しながらもクリスティーナの脳裏には、彼女の遠い過去がフラッシュバックして、美しい自然と繊細な思春期時代の少女のメインストーリーが始まります。
淡々と描かれる偏見と差別がリアルで柔らかく心にじんわりと突く

ストーリーはあくまで淡々と少女エル・マリャの寄宿舎生活を描いているのですが、妹をはじめとする他のサーミの生徒と比べ、より賢く繊細で周りへの意識が高い彼女だからこそ、より強く感じてしまう日常化しているサーミ人に対する人種的な偏見と侮辱が少女の目を通して描かれています。
劇中にはサーミであることに辱めを受けるトラウマ的なシーンがあちこちにあります。
近所のスウェーデン人の青年たちからは「曲芸サーカスの動物たち」、「汚いラップ人」と通りすがりに罵られます。
前述の通りラップ(Lapp)やラピ(Lappi)という語には、あざけりの意味が込められてます。
一見優しそうで理解がありそうな先生も「あなたたちサーミは都会で生きていける能力はない」とウプサラへの進学の推薦状も書いてくれません。
特に屈辱的なのは、サーミの研究のため訪れた人類学者たちのグループたちに、モルモットのように扱われる出来事です。
何が起こっているのかわからないエル·マリャは学者メンバーたちから頭の物差しをあてられ、頭蓋の大きさや形状を測定され、小さいから劣っていると判断されます。
外から見た頭の形状でその人間の性格や頭脳の明晰さが判断されるなんて、現代なら恐ろしくナンセンスな話ですが、屈辱なイベントはそこでは終わりません。
教員や生徒全員の前で裸にされて、恥ずかしい思いで腕で必死に隠す抵抗も虚しく、無理やり手を頭で組まされ、標本のごとく写真を撮られる。
外の窓からは悪態をついてた青年たちが物珍しそうに覗き込んでいるのに、それを注意もしない大人たち。そこには人間としての扱いやリスペクトのかけらもない。写真を撮られるたびにパシャパシャと響くストロボ音と発光、その激しさはまるで光の矢のように容赦無くエル・マリャの心に突き刺さり、見ているものの心もかき乱します。
ただ、シェーネル監督の映像はあくまで静かで抒情的です。
無駄なBGMや効果音や過剰に加工したビジュアルはなく、あるのは少女の心を投影しているであろうと思われるほんの少しの演出。それが心にはこのくらい大きく響いていたであろうというストロボ音や、焼き尽くすような光の激しさです。
淡々と剥き出しに、極めて客観的に、時には間接的に、かつ効果的に最小限の演出を映像にすることで、少女の中にあるであろう羞恥心、劣等感、アンフェアな扱いに対する怒り、というようなものが美しい映像で浄化され、思春期の透明な煌めきとして、見ているものに美しく切なく響きます。
サーミの外と内の世界。対照的な姉妹との関係がリアルで抒情的

主人公エル・マリャの少女時代を演じるレーネ=セシリア·スパルロクは実生活でもトナカイの遊牧をするサーミ人です。
そしてエル・マリャと対照的な性格の妹ニェナ役を演ずるミーア=エリーカ·スパルロクとは実の姉妹関係です。
エル・マリャは頭の回転が速く聡明で芯が強く、向上心のあるキャリア嗜好な少女。
スウェーデン語を流暢に話し、寄宿舎の生徒のお手本として代表として学校を訪ねるゲストにスウェーデン語で挨拶を述べる優等生。先生の家やダンス会場などサーミとは別世界に好奇心旺盛。普段は静かだけれど、サーミ人であることを馬鹿にする青年たちに「取り消して」と食ってかかる激しい感情の持ち主。
一方、妹のニェナは引っ込み思案で内向的で、変化を望まない世間慣れしていないナイーブな少女。
姉を頼り、内向的で寄宿舎さえも最初は不安で行きたくないといい、自分のいる狭い世界をよしとして、他世界に興味を抱かないナイーブな性格。
姉に甘えてヨイクを歌うようせがみ、学校でもサーミ語を話し先生に叱られ、ダンス会場で場にそぐわない民族衣装のままで姉を追いかけ回すのも気にならない。そして姉のことをスウェーデンかぶれしていると非難し、理解できないと涙する。
対照的な二人なのに、サーミの村で二人で過ごすエピソードはとても姉妹らしく、何気ない家族の愛情表現が美しい遊牧的な自然の情景とともに描かれています。
湖では、ボートで漕ぎながらヨイクを歌って笑い合ったり、二人で水浴びをして妹を水に浮かべてあげたりするシーンがあります。
疎ましいと思いながらも妹の世話を焼く姉、上から目線で気に食わないと思いながらも姉に甘える妹、時折文句を言い合いながらも成立している姉妹像のやりとりが、二人の村でのささやか幸せな出来事として、静かな水面で微笑ましく描写されています。
遊牧的な美しさとは対照的に、エル・マリャがのちに経験する都会ウプサラの街はコンクリートで舗装されて、野外の公園は綺麗に設備されていて、街には大きな図書館や学校のビルが立ち並び、姉妹の選んだ道を対照化しているよう。
サーミの外の世界を目指すエル・マリャとサーミの世界で完結したいと願う妹のニェナ。
果たして、どちらの人生が幸せでどちらが不幸であったのか、など一概には推し量れないですが、二人の決別によりそれぞれが姉、妹に対して悲しみや苦しみや自責の念を抱えることになるのは間違いなく、80年後の老いたクリスティーナとして生きるエル・マリャに重くのしかかっています。
その複雑な思いが描かれるエンディングがたまりません。